2025-12-11#掌編小説

名もなき土地と精霊

お盆を過ぎた朝のことだった。外を歩いていると、ポケットのスマートフォンが鳴った。送り主は土地の精霊だった。実家を出てからは帰省のときに訪ねるくらいで、最後に言葉を交わしたのがいつだったか思い出せない。メッセージはこのように始まっていた。

「よお、久しぶりじゃな。突然だが、わしは死ぬことになった」

長い文面には、精霊らしい皮肉が綴られていた。

「皆で守ってきた名もなき藪の地は、ついぞ人間の管理下に置かれる。わしはもうじき天に召す。こいつを遺書として受け取れ」

末尾には「このメッセージは送信専用です」と書かれていた。おおむね予約送信といったところだろう。死んだのなら、返しようがない。僕はスマートフォンをポケットに戻し、その足で駅に向かった。

新幹線の中で弁当を食べながら、僕はその土地のことを思い出していた。故郷に住んでいたときの、子どもの頃からの記憶だ。小学校裏の川沿いには、大人の背丈を越えるほどの藪が広がっていた。藪に近づくと草木が壁のようにそびえ、向こう側を見通すことはできなかった。

ある夏の午後、何かに導かれるように僕はその藪へと分け入った。かすかな踏み跡をたどりながら奥へと進んだ。帰れるかどうか不安だったが、足は止まらなかった。草をかきわけて進むと、やがて空き地に出た。狭くはあったが、その空間だけぽっかりと開けていた。そして真ん中のわずかに盛り上がった地面の下に、ひとりが身をかがめて入れるほどの洞穴があった。大小の石が屋根と壁になり、大人が腰を下ろすと頭が隠れるほどの深さに土が掘られていた。その洞穴の中で、僕は精霊と出会った。

洞穴は昼でも薄暗く、湿った土の匂いがした。隅には石を積んだ台座があり、丸い岩が祀られていた。地べたに灰皿と四角い入れ物が置かれ、吸い殻と新しい煙草が入っていた。洞穴に座ると、きまって年老いた精霊が、眠そうな目をこすりながら現れた。いつもしゃがれた声で早口で話し、僕に煙草の火をつけさせた。精霊は横になってそれを吸った。煙は入り口からゆらゆらと外へ流れ出ていった。

精霊は僕にとってたったひとりの、本当に話のできる相手だった。幼い頃から生活の周縁にあることを、ふたりで語りあってきた。学校や家での喜びや戸惑い、友人や恋人との摩擦、将来への不安。言葉にならない曖昧なものを、堂々めぐりのように話し続けた。精霊はいつも黙って僕の話に耳を傾け、めったに結論めいたことを言わなかった。「それはこういうことなんじゃあないか?」と言ったかと思えば、「いや、こうではないんじゃあないか?」とすぐに翻した。安易な言葉には「そう急ぐもんでもなかろう」と釘を刺し、うじうじと迷っていると「顔を洗って出直してこい!」と僕を叱った。

洞穴から帰るときはいつも、精霊はひとつだけ“お話”を聞かせてくれた。どこかの時代の、どこかの国の知らない物語だ。だいたいはその日の話題と無関係だった。しかし、その物語に身を委ねていると、胸の奥で何かが組み替わるのを感じた。お話が終わる頃にはあたりが暗くなり、僕は「またね」と言って洞穴をあとにした。振り返って空を見上げると、ゆらゆらと煙が揺れてさよならと言っていた。僕はこんなふうに生活の裏側で、精霊とともに年を重ねてきた。

洞穴には、僕以外にも誰かが通っているようだった。広大な藪は同じ風景がつづき、目印をつけるのは難しい。しかし注意深く歩けば、いつもわずかな踏み跡が見つかった。僕はそこから奥へ分け入った。そして煙草は、いつも必要なだけ置かれていた。誰かが吸い殻を片づけ、新しいものを足してくれていた。僕も煙草が減ってきたのを見つけると、家のをくすねてきて置いて帰った。自分で買えるようになってからは、お小遣いをはたいて持参した。

ときおり空き地に行くと、先客がいることもあった。そんな日は引き返し、川沿いをぐるぐると歩いて時間を潰した。きっと他の人たちも、同じように僕を待つこともあったはずだ。そこには言葉のいらない連帯があった。ここを見つけた何人かの手によって、名もなき土地は静かに守られていた。僕はこの洞穴のことを、誰にも話さなかった。

精霊は両義的な存在だった。幼い僕の前でも平然と煙草を吸い、賭け事を持ちかけたり、猥雑な話をすることもあった。常識とされるものには疑いを差し、悪とされるものの中にも価値を見いだそうとした。物語もまた、感動的なものばかりではなかった。勧善懲悪の枠を外れ、ときに危うい思想も含んでいた。ただその語りは、いつも優しさを基調としていた。まっすぐに僕へ向けられていた。だから安心して身を委ねることができた。物語を聞き終えると、身体の芯がじんわりと温かくなった。精霊のことをどうしようもないやつだと思うこともあったが、僕を導く師のような存在でもあった。そして、心からの友人であった。大人になるにつれて回数は減ったが、学校を終えて都心へ出る日まで、僕は何度も洞穴を訪れた。故郷で暮らす最後の日は、明け方までふたりで煙草を吸っていた。

昼過ぎに地元の駅に着き、小学校の方角へと僕は歩き出した。太陽は容赦なく照りつけ、額に汗がにじんだ。しばらく見ないうちに、駅前の個人商店はずいぶん減っていた。僕はドラッグストアに入り、涼しい風でひと息ついてから川沿いの道をたどった。歩きながら、精霊の言葉を思い出していた。

「この土地を気味悪がる者が増えた。放っておけばいいものを、わざわざしゃしゃり出てきて騒ぎ立ておる。潮時かもしれん」

ずいぶん歩いて、いつもなら藪が現れるあたりまで来た。だが、その藪はどこにも見えなかった。見渡す限り草木は刈られていた。視界は遠くまで伸び、隣町まで開けていた。僕は何が起きたのかを予感した。確かめるために足を速めた。歩くと土埃が舞い、砂が靴に入って鬱陶しかった。足の感触は、記憶していたものとは違っていた。もはや何かをかき分けて進む必要もなくなっていた。信じたくはなかったが、やはり予感は正しかったのだ。

精霊と過ごしたその土地は、今は駐車場になっていた。黒いアスファルトが一面を覆い、白線がまっすぐ引かれていた。監視カメラが設置され、看板には「関係者以外の立ち入りを禁ずる」と書いてあった。車は一台もないのに「満」の字が赤く光っていた。僕はアスファルトの上で立ち尽くした。目を瞑って精霊が来るのを待った。しかしどれだけ待っても、精霊は現れなかった。

僕は道を戻って土を手ですくい、駐車場の隅へ運んだ。火をつけた煙草をそこに置き、しゃがんだまま手を合わせた。心の中で「さようなら」と呟き、ただ精霊のために祈った。太陽が背中を焼きつづけ、また汗が吹いてきた。ふと精霊と交わした最後の言葉がよみがえった。「わしはお前の中にちゃんとおる。心配はいらん」。

そのとき、背後で車が止まり、人が降りる音がした。数人の足音が迫ってきて、後ろで立ち止まる気配があった。振り返って見上げると、警備員たちが半円状に僕を囲んでいた。真夏の太陽の下、彼らはヘルメットを被り、防護服を着ていた。腰には警棒を差し、表情は真剣だった。

僕はそのままの姿勢で、目を見開いた。そして思わず吹き出してしまった。彼らがあまりにも仰々しく、馬鹿馬鹿しかったからだ。その光景は側から見ても滑稽だったろう。きっと精霊もどこかで肩を震わせていたはずだ。駐車場の隅に置いた煙草の煙は、風のない空にゆらゆらと揺れていた。

夏原 絃

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